悟った日 1

 何もない休日だった。一人、ベランダから見える夜景を眺めながら赤井は今日最後の煙草に火をつけていく。このまま何もなければいいのだが。今日はいつもに増して妙な胸騒ぎがしてならなかった。この時間まで酒には手を付けていなかったのはそのせいだろう。いつもと変わらない街を駆け巡るサイレンの音も、今日は特に多い様な気がしてならなかった。

「……っ、」

 そう思ったのも束の間、部屋の静けさを掻き消すように電話を知らせるスマホの音が鳴り響く。やはり胸騒ぎは今回も当たってしまった。

「シュウ……!良かった、今から直ぐに病院へ向かってくれ!緊急だ」

 耳元で感じる、上司の、ただ事ではない様子に彼は手に持っていた煙草の火を消す。上司である彼は今、出張でNY不在にしている。それがこんな夜更けに病院とは一体。

「名前が襲われたんだ、銃撃を受けて……っ!一緒にいた男は今、集中治療室に」

 彼の言葉の途中で、赤井はすでにジャケットと車のキーを握り部屋を出る。共にいたという男は名前の同期なのだという。彼女は、無事なのだろうか。片方の耳で状況説明を聞きながら、頭では病院への最短ルートをイメージしていく。

 聞けば、名前は奇跡的に軽傷で済んでいるのだが、一緒にいた同期の男は重体。二人はとあるバーを出て道を歩いていた所、車に乗った犯人から突然銃撃を受けたという。車のナンバーや犯人に関する情報は今の時点では不明。上司である彼は現在、州外にいるため赤井が代わりに名前のフォロー、並びに事件の捜査を任されたのだが脈打つ心臓の鼓動ばかりが煩い。車のアクセルは力任せに踏み込んでいた。

「FBIだ、銃撃を受けた二人の容体は?」

 車を乗り捨てるようにして駐車し、病院へと歩みを急ぐ。人気の少ない深夜の病院は、それでだけで気が削がれていくような心地になる。彼女の姿を確認するまでは安心できなかった。すぐに捜査を始める必要があるのは理解しているが、今の状況に焦りを感じずにはいられない。看護師の案内で集中治療室まで辿り着くと、廊下の先、薄暗がりの長椅子に名前は座っていた。

「……っ」

 俯いたまま、顔を上げる気配のない彼女からは何も感じられない。銃撃に遭った際、道路に倒れ込んだのであろうか服の至る所に擦れたように汚れが付着している。硬く結ばれた名前の拳には、恐らく同期の男のものだろう赤黒い血が乾いて張り付いたままだった。

「……名前、」

 仕事中の彼女は常に毅然としていた。どれほど酷く、残酷な事件を担当しても上手く感情をコントロールしているように見えた。前を向く事を忘れず、目的を見失うような素振りも見たことがない。だからこそ、まずいと直感した。今の彼女からはいつもの笑顔が、まるで思い出せない。一度、触れ方を間違えてしまえば、あっという間に崩れ去ってしまうような緊張感すら感じた。

「名前、」

 彼女の足元へ片膝をつき、下からその表情を覗き込む。視線は合わない、が、名前はハッとしたように瞬きを数回繰り返した。乾いた唇が薄く開かれ、そうして言葉を発しようと微かに動かす。しかし、いくら待っても言葉が紡がれる事はない。

「……大丈夫か?」

 彼女は一呼吸置いてから頷いてみせたが、瞳は定まらないまま。下唇を噛み締めながら、今にも泣き出してしまいそうだった。そんな姿を見て咄嗟に、彼女の背中に手を置いていた。数回、労いも込めて優しく触れてやれば、それがトリガーになったのか名前は小さく身体を丸めてしまう。

「っ……ぅ、っ」

 ああ、こんなにも華奢だっただろうか。彼女の隣に腰掛けそっと肩を抱き寄せると、その身体の細さに驚いた。声を震わせながら涙を流す名前を黙って見ていられなかった。何度も彼女の身体を摩りながら、こちらへと凭れさせると彼女も体重を預けてくる。

 名前は小柄でありながらも、周りの捜査官と引けを取らないくらい逞しく職務をこなしていた。それでも彼女はまだ捜査官になってたかだか数年。今は、命の危険に晒された被害者の一に過ぎない。冷え切ったその身体を温めるよう抱き寄せる腕に力を込めると、彼女は少し落ち着いたのか身体を離していく。

「……無事でよかった」

 彼女の同期である捜査官が重体の今、そんな事を言うのはべきではないことは分かっていたが、それでも言わずにいられない。名前の横顔は案の定歪んでいく。首を振りながら、そうして自分自身を責めていた。

「ちがっ……」
「……名前、」
「私がっ、いけな、っ!」

 それ以上は言わせまいと、赤井は優しく名前の頬に触れる。そうじゃないだろう?、と、極めて落ち着いた声で言えば彼女は口を継ぐんだ。同期の男は名前を庇って銃撃を受けたと聞いている。それが確かなら彼女が自分を責めてしまうのも無理はない。本来は彼女自身が被るはずのものだったのだから。

「着ているといい」

 ジャケットを脱いで彼女の肩に掛けてやると、名前は僅かに頭を下げて反応する。少しでも気持ちが和らげばいい。冷え切った身体が温まればと思ってのことだが、彼女は一点を見つめたまま。

「怪我は?」

 名前が少し顔を上げる。

「足を少し……でも、歩けます」
「医者からは他に何か言われたか?」

 彼女は首を振った。

「そうか、ならまずは手を洗いに行こう」

 人通りの少ない暗がりの廊下とはいえ、汚れたままでいるのは、周りにも名前自身にも好ましくない。気持ちを立て直すきっかけにもなればと、意識を他所へ向かせようとするが彼女は立ち上がろうとしなかった。集中治療室と書かれた文字を見つめては、そのドアが開くのを待ち続けている。

「名前、手を洗いに行こう」

 そうして彼女を立ち上がらせると、名前は少しだけ冷静さを取り戻したのか事故当時の出来事を思い出したようにぽつぽつと語り始めた。彼女の証言が今のところ唯一の手がかりだった。深夜0時過ぎ。事件発生から1時間以上経ってしまっていたが、他チームの捜査官と協力しながら赤井は捜査を進めていく。スマホで指示を送りながらも、彼の意識は常に名前に向けたまま。一度、私も捜査に加わると彼女は口にしたのだが、到底任せられる状況ではなく代わり手術の経過を報告してほしいとだけ頼んでソファーへ座らせている。

「……手術、長引いているみたいです」

 捜査の状況は今できる限りの指示をした上、あとは各チームから報告を待つのみだった。病院で提供されている薄いコーヒーを注いで彼女に手渡すと、名前はゆっくりと手を伸ばす。ソファーへ座るよう促せば、素直に従った。

 深夜1時過ぎ。赤井は彼女の隣に座ったまま何も言わなかった。こんな時、慰めの言葉など助けにならないことはよく知っていた。そして横に人がいるだけで幾分かマシなことも。

「名前……」

 それから数分後、集中治療室から出てきた医者の表情が全てを語っていた。医師の言葉を最後まで聞く前に名前が口元を覆う。数日、持ち堪えられるかどうか難しい状況、と説明され小さな身体が小刻みに震えていた。後は彼を信じるしかない、と希望を残した医者に目配せして、赤井は名前を強く抱き寄せる。

 彼女も、縋るように額を胸元へ押し当ててきた。肩を揺らしながら、それでも感情を必死に抑えるように息を漏らす。そんな彼女に何もしてやれない。大丈夫だと、根拠のない励ましの言葉を掛けることもできず、ただ背中を撫でつけていた。

「名前、今日はもう休もう」

 視線を合わせるように顔を覗き込むも、彼女のからの返答はない。多少強引ではあるものの名前の返事を聞かないまま彼女を駐車場へ連れて行った。細い肩から落ちそうになっていたジャケットを肩にかけ直しては、そうして彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。

「ああ、状況は?」

 名前を助手席に座らせると、ちょうど連絡が入る。例の車は盗難車であり、恐らく計画的なものだろうということ。つまり名前たち捜査官への逆恨み、という線も残っているようだった。そんな奴らが野放しになっていることは一刻の猶予も無い状況なのだが、それよりも問題は彼女だった。大きなため息を漏らさずにはいられない。マスタングのルーフを二度ほど叩いて、なんとか自分の気を紛らわせるしかなかった。

 本当は、捜査よりも名前のそばに居てやりたい。今の彼女を一人にしていいものか。しかし犯人を捕らえることが、残された捜査官達の使命であり、ひいては残された者のせめてもの救いとなるのも承知している。

「……行こうか、」

 赤井は気持ちを切り替えて車に乗り込む。名前は一点を見つめるばかりで返事はない。構わず発進させると、深夜の道は当然空いておりあっという間に彼女のアパートまで辿り着いてしまう。

「名前、」

 着いたぞと、言わなくとも分かるはずが彼女は顔を上げようとしない。時刻はもうすぐ午前2時を過ぎようとしている。明日の仕事は休むべきだ、それは伝えておくよと、口にしかけたその時、名前が短く息を吸った。

「あかい、さん……」

 彼女の瞳が涙で揺れているのが分かる。もう限界だったのだろう。苦しそうな表情を浮かべる名前を見ていられなかった。思わず手を伸ばし彼女の頬に触れていくと、それを境に、彼女の瞳からは涙が零れ落ちていく。

 もう、今は何も考えなくていい。そう伝えるように、弱弱しく肩を震わせる名前の身体を抱き寄せていた。こんな様子の彼女を、とても一人にさせることなど出来ない。自分を責め、苦しむ彼女を一人にさせてはならない。思うのはそれだけだった。