悟った日 1

 それは休日の、夜更け前の出来事だった。俺は自宅で一人、ベランダから外の景色を眺めながら今日最後の煙草を味わっていた。この時間まで酒に手を付けていなかったのは奇跡に近い。何か理由があったのか。思い出せないが稀なことだった。

「ん?」

 今夜はこのまま今夜は眠ってしまおうかと、思っていたところにかかってきた一本の電話。上司の名前を見て嫌な予感がした。彼は今、出張で不在にしているはずだ。それがこんな夜更けに何事だろうか。

「シュウ!今から俺の代わりに病院へ向かってくれ!」
「……一体、」
「名前が襲われた!一緒にいた同僚は今……」

 彼の言葉の続きを聞くことなく、俺はジャケットと車のキーを握り取る。同僚の状況は分かった、名前は無事なのか。片方で病院への最短ルートをイメージしながら、もう一方で状況を整理していく。彼女は同期の捜査官と二人で歩いていた所、車に乗った犯人から突然銃撃を受けたという。名前は奇跡的に軽傷で済んでいるようだが、一緒にいた同期の男は重体。犯人の行方も不明。

 不在にしている上司に代わって彼女のフォロー、並びに事件の捜査を任されたのだが脈打つ心臓の鼓動ばかりが煩く集中できない。アクセルを力任せに踏み込んでいた。

「っ……名前、」

 消毒の香りが漂う、静まり返った深夜の病院。名前の姿を探せば、彼女は集中治療室の前、薄暗がりの長椅子に一人座っていた。

「……っ」

 俯く彼女からは、何も感じられない。道路に倒れ込んだのであろうか、私服がコンクリートに擦れたように汚れている。何より硬く結ばれた名前の拳には、洗い流せていない赤黒い血が乾いて張り付いたまま。いつもの笑顔の欠片も見当たらず青白い顔のまま一点だけを見つめている。

 彼女は常に、どれほど目を背けたくなるような事件を担当しても気丈に振る舞い、上手く感情をコントロールしていた。しかし、だからといって常に乗り越えられる訳ではない。

「名前、」

 顔を上げる気配のない彼女へ向かって、そっと声をかける。次にかけるべき言葉が出てこない。想像以上に憔悴し切った姿に、これはまずいと直感する。扱い方を間違えればあっという間に崩れ去ってしまうような、そんな緊張感が漂っていた。

「……名前?」

 彼女の足元へ片膝をつき、表情を伺うように見上げれば名前はようやく顔を僅かに上げる。乾いた唇は薄く開いたまま。何かを伝えようと微かに動くも音にはならず、ぎゅっと口を噤んでいる。

「……大丈夫か?」

 彼女の瞳は動揺に揺れ、定まらない。下唇を噛み締めながら何度か頷くも、それが偽りであることは明確だ。そんな姿を見て何もせずにはいられる筈がない。咄嗟に彼女の隣へと腰掛け、その細い肩を抱き寄せていた。優しく、名前の頭を撫で付けながら自身の胸へと凭れさせると彼女が細い息を漏らす。

 こんなにも、華奢だっただろうか。小柄でありながらも周りの捜査官と引けを取らない程、逞しく思えていた彼女は今、ただ一人の少女に見えた。冷え切ったその身体を温めるよう片腕で包み込むように抱き寄せれば、名前が身体を預けてくる。

「……君が、無事でよかった」

 彼女の同期である捜査官が重体の今、そんな事を言うのはべきではないことは分かっていたが、それでも言わずにいられない。案の定、名前は首を振りながら身体を離していく。

「ちがっ……」
「……名前、」
「私がっ、いけな、っ!」
「名前……そうじゃないだろう?」

 極めて落ち着いた声でそう言えば、彼女は押し黙る。同期の男は名前を庇って撃たれたと、それが確かなら彼女は自分を責めているのだろう。自分が被るはずだったことなのだから。

「着ていろ、」

 上着は止血に使ったのか持っていないようだった。ジャケットを脱いで彼女の肩に掛けてやると名前は頭を僅かに下げる。少しでも、気持ちが和らげばいい。冷え切った身体が温まればと思ってのことだったが、彼女の表情は変わらない。

「怪我は?」

 名前は静かに顔を上げる。

「足を……でも、歩けます」
「医者から、他に何か言われたか?」

 彼女は首を振った。

「そうか……なら、まず手を洗いに行こう」

 人通りの少ない暗がりの廊下とはいえ、汚れたままでいるのは、周りにも名前自身にも好ましくない。気持ちを立て直すきっかけにもなればと、意識を他所へ向かせようとするが彼女は立ち上がろうとしなかった。集中治療室と書かれた文字を見つめては、そのドアが開くのを待ち続けている。

「ほら、来るんだ」

 なんとか彼女の手を洗わせると、名前は少しだけ落ち着いたのか事故当時の出来事を思い出したようにぽつぽつと語り始めた。

 その後、後から病院へやって来た他チームの捜査官と情報を共有していった。意識は常に名前に向けたままだ。捜査に加わると言いに来た彼女には上手く言ってソファーへ座らせているのだが、手渡した温いコーヒーに口をつける様子はない。とにかく彼女は全ての色を失っている。
 
「もう、二時か……」

 同僚たちは捜査に向かったため、人の減った待合室は随分と静かになっていた。しかし、手術が長引いている。名前の隣に座って、もうどれくらい経っただろう。相変わらずコーヒーを持ったまま、その表面を見つめている彼女を前にして何も言ってやれなかった。慰めなど、助けにならないことはよく知っていた。そして、横に人がいるだけで幾分かマシなことも。

「残念ですが、彼の意識が戻る可能性は……」

 それから数分後、集中治療室から出てきた医者の表情が全てを語っていた。医師の言葉を最後まで聞く前に、名前が口元を覆う。自然と数歩下がった彼女を支えると、その身体は小刻みに震えていた。

「名前……」

 医者に目配せして、名前を強く抱き寄せる。彼女も、縋るように額を胸元へ押し当ててきた。肩を揺らしながら、それでも感情を必死に抑えるように息を漏らす彼女に何もしてやれない。大丈夫だと、根拠のない励ましの言葉を掛けることもできず、ただ背中を撫でつけていた。

「名前、今日はもう休もう」

 視線を合わせるように顔を覗き込むも、彼女のからの返答はない。多少強引ではあるものの名前の返事を聞かないまま彼女を駐車場へ連れて行く。細い肩から落ちそうになっていたジャケットを肩にかけ直しては、たどたどしい歩き方をする彼女に合わせてゆっくりと歩いた。

「ああ、状況は?」

 名前を助手席に座らせると、ちょうど連絡が入った。例の車は盗難車であり、恐らく計画的なものだろうということ。つまり捜査官への逆恨みの線も残っているのだ。そんな奴らが野放しになっていることは一刻の猶予も無い状況なのだが、それよりも問題は彼女だった。大きなため息を漏らさずにはいられない。マスタングのルーフを二度ほど叩いて、なんとか自分の気を紛らわせるしかなかった。

 本当は、捜査よりも名前のそばに居てやりたい。今の彼女を一人にしていいものか。しかし犯人を捕らえることが、残された捜査官達の使命であり、ひいては残された者のせめてもの救いとなるのも承知している。

「……行こうか、」

 気持ちを切り替えて車に乗り込んだ。名前は一点を見つめるばかりで返事はないが、構わず発進させる。こんな時間だ。車通りの殆どなかった。

「名前、」

 無言のまま車を飛ばして数十分。彼女のアパートの前に停車し、俺は視線を送った。着いたぞと言わずとも分かるはずが、彼女は顔を上げようとしない。時刻はもうすぐ午前三時。明日の仕事は休むべきだ、それは伝えておくよと、口にしかけたその時、名前が短く息を吸う。

「くるしい、です……」

 彼女の瞳が、涙で揺れているのが分かる。もう限界なのだろう。気づけばシートベルトを外し、涙で濡れた名前の白い頬に触れていた。それを境に、彼女の瞳から涙が零れ落ちていく。

 もう、今は何も考えなくていい。そう伝えるように、弱弱しく肩を震わせる名前の身体を抱き寄せていた。こんな様子の彼女を、とても一人にさせることなど出来ない。自分を責め、苦しむ彼女を一人にさせてはならない。思うのはそれだけだった。